ドビュッシー 没後100年 一人博覧会

昭和のドビュッシー受容と平成のアニヴァーサリのグランドスラム

昭和の後半に生まれし世代ですが、ちょうど今回話題にするドビュッシー生誕100年+数年のあたりで生まれた世代です。

そして平成に入ると無事生誕150年を迎えさらにその六年後没後100年を迎え、平成は一寸したアニヴァーサリーのグランドスラムをも迎えてたわけでもあります。

そのドビュッシーは生涯はそんな昭和世代から100年シフトしており、彼は日本では幕末の頃のフランスに生まれ、19世紀末に才能を開花し、明治の日露戦争前後に創作のピーク迎え、大正期の第一次大戦欧州の戦火の最中、自らの直腸癌で亡くなるというもので、昭和とあまりに遠隔と思えがちですが、さにあらずドビュッシーの音楽語法やその音楽自体昭和で受容が確定花開いたような気もするのですこし照らしてみます。

普遍的表意記号的に使われた全音音階

最初に下世話なのですが、必ずはドビュッシーの音楽語法の紹介にて押さえられる一つに全音音階(ぜんおんおんかい、英語:whole tone scale)があるのですが、この音階は実にドビュッシーの代表的音楽に必ず現れる頻度が多く、他の作曲者にも使用例あるが、あまりに特徴過ぎてドビュッシーのイニシャルマークともなっており、それらの他の使用例もドビュッシー風の手法の烙印が押されてしまうほどのものでああり、また影響を受けた後進の作曲家も何かしら影響を受けた兆候のバロメータのごとく出現するものです。

彼の初期のカンタータ「道楽息子」の「行列と舞曲」あたりの控え目から確立期のピアノ曲「映像第二集」「葉づえをわたる鐘」壮年期の「前奏曲集 第1巻」の「ヴェール(...Voiles)」等の全開で使用まで様々です。 

そんな全音音階(ぜんおんおんかい、英語:whole tone scale)ですが調性感覚をぼかすのにも都合が良いとされ、大半の方々が聞いた感じは、「謎を問いかける」ような「果てしない未知の広がり」「曖昧模糊」などの印象を想起させることが多いです。

 

其のせいか昭和のTVなどの番組に使用するブリッチ音楽や付随伴奏音楽である劇伴奏の情景音楽の素材として普遍的記号的使われ方をされ、そちらの認知の度合いが多い状況にもなりつつありました。

wikipediaに一例ありますが 「鉄腕アトム」のオープニングから「美少女戦士セーラームーン」の必殺技「ムーン・ヒーリング・エスカレーション」(初代)と昭和から平成へ引き継がれているのがわかるでしょう。

ベースになった芸術音楽そして商用音楽に大衆音楽の流れがドビュッシーの語法の影響が強かった表れでありそれらは紆余曲折してなお極東まで浸透してるわけでもあります。

ドビュッシーを日本で初めて広く紹介した大田黒元雄

今日において既知となっているドビュッシーですが、日本においての芸術の批評報告としてでなく音楽関係者の書く評伝として、並びに演奏を通しての体感での紹介は太田黒元雄の啓蒙に集約されるでしょう。

 

日本における音楽評論の草分けの一人の大田黒は、裕福な環境で博識に育ち、若い頃に渡欧、その欧州の演奏会の情報や芸術の動向に関する最新の情報を惜しげもなく日本楽壇に提供、啓蒙家として自宅に人を招いて自らピアノを演奏し、ドビュッシーなど当時最先端だった近代音楽の紹介にも尽力しており、ことさら集めた資料や情報をもとに刊行『バッハよりシェーンベルヒ』(1915)においてそれ以前の一部の仏文革系文壇の間で「印象主義の学才」(内藤濯)あるいは「西洋音楽最近の傾向」(永井荷風)として狭く知られていたドビュッシーを広く体感を踏まえて知らしめた人物であります。

 

その後数々の音楽啓蒙の著書の間に数回ドビュッシーの評伝を発表しており、紹介者の地位は確固たるに至ります。

第二次大戦後は、昭和中期のラジオ放送のレギュラー出演者として語り口が人気を博したり、「汽車」「野球」「ネクタイ」など様々な評論も携わり、さらに数回功績による受勲をするもそれに囚われない、芸術的な自由人としての生活を生涯貫きます。

その死後の杉並区の邸宅が平成に公園となり、さらに近年所有していた自宅に人を招いて自ら引いて未知の曲を紹介した、あのピアノが復元整備されて、演奏可能となり、演奏されたドビュッシーの楽曲を含む音盤が発売されいております。

太田黒の功績と遺したピアノが、ドビュッシーの時代と昭和そして今の終わりつつある平成繋げる架け橋となり、ちょうど没後100年、なんというまれな偶然でしょう。

これもグランドスラム 

つづく